不運と理不尽に襲われたとき、うまく切り抜ける人と、逃げ切れずに酷い目に会う人の違い

不運と理不尽に襲われたとき、うまく切り抜ける人と、逃げ切れずに酷い目に会う人の違い - 分裂勘違い君劇場

 

リンクだと記事が消失している可能性があるので、

以下、引用

不運と理不尽が襲ってきたときに、上手く対処できる人の多くは、不運と理不尽を食らい慣れている。

 

今までの人生で、あまりにも酷い不運と理不尽に徹底的に痛めつけられ続けてきたために、慣れっこになってしまっているのだ。

ベルセルクのガッツが理不尽なビンタを食らって、目に涙をためて「親父にもぶたれたことがないのに!」などと叫んで抗議するところが想像できるだろうか?

そういうタイプの人は、ドル箱商品や既得権益を持たず、競争にさらされた実力主義の会社の上層部に多い。

そういう実力主義の会社では、地位が上がれば上がるほど襲いかかる不運と理不尽の質も量も大きくなっていく。

 

客と仕様の凍結に合意し、開発がかなり進んでから、客が前言をひっくり返して、大きな仕様変更を無理矢理迫ってくる。それではスケジュールが 大幅に遅れるというと、スケジュールは絶対に変更するわけにはいかないという。徹夜続きで意識がもうろうとする中、部下の1人が支離滅裂で荒唐無稽な被害 妄想を抱き始め、仕事を放り出しただけでなく、ストーカーのように延々と電話をかけてくる。意味不明の要求をしてきて、要求が通らないなら自殺するとい う。もはや幻覚や幻聴まで聞こえるようで、筋道だった説得などまるで効かない。その部下の両親に電話して、なんとか引き取ってくれと言っても、両親も兄弟 も他人事のようで、ちっとも動こうとしない。プロジェクトの中核メンバーが、病気になって寝込んでしまう。別のメンバーはいきなり会社を辞めてしまう。高 い金を出して買った大手の会社のロードバランサーがバグだらけでサービスが落ちまくる。ロードバランサーの会社のサポートに電話しても、見当違いの頭の悪 い回答が返ってくるだけ。ろくに技術力のない安い人間をサポート担当にしているのが丸わかりだ。そして、サービスの復旧を早くしろと、客が真っ赤な顔をし て怒鳴り込んでくる。それにわをかけるように営業担当が、無神経なメールを客先に送って、客の不信感を募らせてしまう。それに気を取られている隙に、成果 が出なくて年俸を下げられた部下が逆恨みして、他のプロジェクトメンバーに誹謗中傷をふりまいて、プロジェクトの雰囲気が最悪になる。足下をみてくる交渉 相手。弱みにつけこんでくる協力会社。ヤクザがサービスに難癖をつけて乗り込んでくることすらある。大きな会社との有望な共同プロジェクトに、突然予想外 の強力なライバル企業が、エグい接待などの寝技を使って割り込んでくる。

あらゆる予防策を入念に打っておいたにもかかわらず、それをかいくぐって、どうしょうもない不運と理不尽が次々に襲いかかる。

 

もちろん、道徳的にはそれらの不運の責任は自分にはない。本来なら、それらの災厄を引き起こした張本人たちに責任があるはずだ。

ロードバランサがバグだらけなのはロードバランサの会社が悪いはずだし、難癖を付けてきたヤクザに道徳的な正しさなどあるはずがない。

詐欺師や強盗に襲われたら、道徳的に悪いのは加害者であって、詐欺師に騙されたり強盗に襲われた被害者に罪があるわけがない。

 

しかし、自分が道徳的に悪くなかったことを証明したところで、なんら問題は解決されず、会社はどんどんヤバくなる。

だから、高い職位にいる人間は、それらの不運と理不尽を、全て自分で飲み込まなければならない。

当然、経営会議で責任を追及されて、自分が悪くなかったことを証明しようとしても、「それを何とかするのが、おまえの役割だろう!」と言われるだけだ。

 

そもそも、既得権益を持たない会社だと、会社自体が常に競争に晒され、大量の不運と理不尽に襲われ続ける。

経営陣はそれらを役割分担して処理していく。

しかし、それらの不運と理不尽は、役員だけで処理しきれないほど多い。

だから、会社役員は、それらの処理を担ってくれる人間を重要な地位に就け、地位にふさわしい不運と理不尽を負担してもらう。

こうして、会社の階層がつくられていく。

 

こういう会社の上層部のポジションは、恐ろしいストレスのかかる激務であり、不眠症鬱病自律神経失調症になることも多い。

その一部は、満身創痍になり、酷い心の傷を負いながらもそこからはい上がり、さらに強くしぶとくなる。

ベルセルクのガッツが不運と理不尽に襲われるたびに、それを食らってますます強靱に鍛え上げられていくように、彼らも理不尽を食らってますます強くなっていく。

一方で、そのまま復活できずに、廃人になって脱落していく者もいる。

 

そんな生活を5年も続けて生き残ると、どんな人間ができあがるか、想像できるだろうか?

 

こうして、マッチョができあがるのだ。

 

しかし、「不運と理不尽」という、黒い子宮が産み落とすのは、マッチョだけではない。

ウィンプもまた、同じ子宮から産み落とされる。

マッチョとウィンプは、どちらも「不運と理不尽」という名の黒い子宮から産み落とされた双生児なのだ。

 

ほとんどの人間は、それほど酷い不運にも理不尽にも見舞われないので、マッチョにもウィンプにもならない。

酷い不運と理不尽に襲われた人間だけが、マッチョorウィンプになる。

 

マッチョとウィンプは、かなりクリアに区別できる。

 

何年もの間、不運と理不尽を食らいつづけたマッチョの社会正義に対するスタンスは、概ね以下のようなものになってくる。

優秀な人材に変身するキッカケに出会うか、未熟なまま老いていくか

「誰でも正しいことをすべきだ」ということと、「それを実際にどう実現していくか」ということは、全く別のことなのだ。

世の中で正しいことを実現していくには、世の中が正しいことを前提として行動してはいけないのである。

<<略>>

そもそも、世の中は、正しいか間違っているかの2分法では動いていない。常に、その中間で、様々な妥協をしながら、結果として、正しい方向にどれだけ近づけることができるか、そういうゲームなのである。

<<略>>

上司は、自分より賢いとは限らず、正しいとも限らず、それにもかかわらず、自分は上司のオーソライズのない行動はとれない、という現実を直視するところからはじめないと、プロジェクトは上手く動かせない。

<<略>>

不毛な政治ゲームが少しでも減るように心がけながらも、現実的には、政治ゲームには政治ゲームで対抗しながら、自分の理想を実現していかなければならないことを、肝に銘じて生きていくべきだろう。

 

つまり、そもそもの前提において、マッチョは社会正義などをアテにして動いたりはしない。

マッチョの認識では、社会とは、不運と理不尽にまみれた、魑魅魍魎の蠢くベルセルクの世界なので、不運と理不尽に出会っても、いちいちヒステリックに社会正義を叫んだりはしない。

マッチョが社会正義を叫ぶのは、それが戦略的に意味がある場合だけだ。

マッチョは自分に責任のない災厄が降りかかってきたときも、あわてず騒がず、淡々と自力で対処する。

それが道徳的に自分の責任なのか、他人の責任なのかを考えるのは後まわしにして、とにかく事態を収拾する。

こうして、問題は解決され、プロジェクトは前進する。

 

もちろん、マッチョだってきちんと約束を守ってくれるパートナーは大好きだし、理不尽な要求をしない礼儀正しい客とは末永くおつきあいしたいと思う。

いざというときトンズラこく裏切り者の部下より、逃げずに持ち場を守ってくれる信義に厚い部下や同僚や上司を望む。

逆に、難癖を付けてくるヤクザなんて、まっぴらごめんだし、そういう理不尽な目に会わない社会を望む。

しかし、マッチョは、社会正義を望むことと、社会正義が実際に実現されているということが別のことであるということを、骨の髄まで熟知している。

だから、マッチョは、前提とされるべき社会正義などアテにせず、パワーゲームにはパワーゲームで対抗し、自力で社会正義を実現しようとする。

新しい時代の道徳はどのようにして生まれるのか

子供たちは、そういう親たちから学んだ。この世界の本質は、パワーゲームであると。

<<略>>

結局のところ、社会の流動化によって仁義なきパワーゲームが支配せざるを得ない現代という時代においては、理想は、パワーゲームによって現実化するしかないのではないか。

そして、その理想が崇高なものである場合、理想を実現するために創られたその権力構造は、かつての「道徳」と似たものになることが多い。

そうして、学校に限らず、社会の至る所で、多くの大人たちが、パワーゲームによって自分の理想を実現し、多様な道徳構造を創り出していくと、その総和として、より豊穣で、柔軟性を持った新しい時代の道徳構造が出現するのではないのだろうか。

 

一方で、ウィンプは純粋まっすぐな正義の人だ。

彼らは不運や理不尽に襲われると、自分が悪くなかったこと、相手が悪かったことを証明して、だから私には責任がないという。

そして、それは道徳的にも社会的にも正しいことも多い。

道徳的にも社会的にも正しいが、しかし、問題は解決されないままだ。プロジェクトは悲惨なままだ。

 

また、ウィンプの多くは不運と理不尽のリスクに対して鈍感だ。

ウィンプは不運や理不尽のせいでプロジェクトが失敗しても、それは自分の責任ではないと考えるからだ。

不運は私のせいではないし、理不尽も私が責任を取るべきことではないから、私の知ったことではない。

悪いのは常に加害者であって、その責任を被害者がとるなんて、バカげている。

ウィンプはそう主張する。

彼らは「人々が道徳的に正しいことをすべきだ」ということと、「人々は実際に道徳的に正しいことをする」ということの間にある巨大な溝にはま り、酷い目にあって「その溝を埋めるべきだ」と泣き叫び、観衆は「そうだそうだ」とうなずき、彼らは人々の同情を集めることに成功する。

 

一方、マッチョはほとんど無意識のうちに不運と理不尽のリスクを警戒する。

なぜなら、不運と理不尽のリスクマネージメントも含めて、自分の責任だと考えるからだ。

 

マッチョの多くがパラノイアのようにありとあらゆる不運と理不尽の可能性を事前にリストアップし、対策を立て、戦略的にマネージメントするのに対し、ウィンプの多くは不運と理不尽を戦略的にマネージメントするという発想が欠けていることが多い。

不運と理不尽は、自分の責任ではないから、そんなことを気にしてもしょうがないとでも思うのだろうか?

 

だからウィンプは、ろくな対策もしないまま不運と理不尽に襲われる。しかも、あまりの不運と理不尽さに押しつぶされ、ショックで脳が麻痺して しまい、効果的な具体策が考えられなくなってしまう。そして、効果的に逃げることもできず、立ちつくしたままボコボコにやられてしまう。

そして、

「ぼくは何も悪いことをしてないのに、社会が/会社が/上司が一方的に悪いせいで、こんなに酷い目にあった。」

という論調のエントリを書いて、人々に同情されて喜んだりする。

そのエントリの内容自体は正しい。

不運と理不尽は、ウィンプの責任ではないからだ。悪いのは加害者であって、被害者ではないからだ。

 

20代中頃、この文にひどく共感を覚えたりした

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優秀な人材に変身するキッカケに出会うか、未熟なまま老いていくか - 分裂勘違い君劇場

以下、引用

頭が良く、意欲的に仕事にとり組むんだけど、いまいちアテにできない人というのがときどきいる。

ポテンシャルはあるのに、どこか独りよがりなところがあるために、暴走するリスクがあり、安心して、重要な案件を任せられないタイプの人間である。

 

そういう人は、「きっかけ」があると、大化けする。本当にすごい人材になる

 

しかし、きっかけが無いと、つまらない脇役仕事や日陰仕事ばかりやらせられ、未熟なまま老いて、どんどん腐っていってしまう。

この記事で描かれている坂本君は、いかにもそういうタイプの人だ。

芦屋:坂本,この「貴方の営業ご担当者様が販売活動しやすいように工夫しています」という表現は,抽象的で意味不明じゃないか。意味が分から ないから,「先方へのアピール」になってないんじゃないか。説得力もないよ。ここは,具体的な事例を使って修正すべきだな。どう修正すればいいか考えて よ。

坂本:いや,ここはこれでいいんですよ。この文章はあえて抽象的でいいんです。いろいろ,イメージを膨らませてもらう効果が出ればいいんですよ。

芦屋:駄目だよ。そんなんじゃ「いい加減な提案」と思われてしまうよ。もっと,訴求力を持たせなきゃ。それには,具体的に書いた方がいい。

坂本:なんで,そう言い切れるんですか?絶対正しいといえるんですか。なら,変えますけど。

芦屋:そういう問題じゃないだろ。お前が自主的に変えなきゃ意味ないだろ。納得して変えなきゃ,何もならないだろ。

坂本:自分は,これでよいと思うんですよ。でも,変えろというなら,変えますよ。私は,芦屋さんの部下ですしね。

 

この会話では、芦屋氏は、「坂本君の言うとおり、この文章をあえて抽象的にしたほうが、結局は上手くいく」という可能性について、検討していない。

「イメージを膨らませてもらう効果」というメリットがどれくらいあり、それがその後の話の展開にどうつながるのか、検討していない。

 

たとえば、その提案書を使ってプレゼンするミーティングに出席する先方さんのメンバーによっては、相手の反応が予想しにくいケースがある。

その場合、抽象的な文章であれば、相手の反応を見て、いくらでも見せ方を変えられる。

しかし、あまり具体的なことを書くと、「その具体例の使い方が、商品そのもの」だと思いこんでしまうかも知れない。

実際には、その商品は、もっと全然別の使い方ができる、全然別の意味と役割を持たせるような導入の仕方もできるのに、その実例のイメージに引きずられて、その商品の導入が見送られるかもしれない。

一方で、先方の組織の状況や抱える問題にだいたい検討がついているなら、その問題をズバリ解決してみせるような具体的なソリューション事例をぶつけてみるのもありだろう。

また、この資料が先方さんの会社でコピーされ、どんどん一人歩きする可能性もある。その場合も、その具体例に引きずられて、イメージが固定化 されてしまうリスクがある。逆に、具体例が豊富なら、わざわざプレゼンして回らなくても、その資料だけ読んで商品をよく理解し、こちらにコンタクトを取っ てくるかも知れない。

つまり、メリットもデメリットもあるわけで、その辺のバランスは、状況依存であり、状況をよく分析して、戦略的に決めることだ。

 

だから、坂本君が、本当に賢い(wise)のなら、当然、そういうディスカッションを、まず芦屋氏に仕掛けてみるだろう。

つまり、芦屋氏が、そういうディスカッションをする意思と能力があるのかを、チェックするはずだ。

 

それが、第一ステップ。

 

次に、芦屋氏に、その能力と意思があることを確認できたら、ディスカッションに持ち込むだろうし、それが無いことが分かったら、芦屋氏を「攻略」する方法を考えるはずだ。

 

つまり、これは、顧客の会社の人々だけでなく、芦屋氏も含む、トータルの意思決定メカニズムを操作するゲームなのだ、ということを割り切って、芦屋氏を含む全ての人の利害と感情の構造を調整し、だれもが納得するように、芦屋氏を巧妙に誘導し、顧客も誘導するだろう。

 

この際、芦屋氏が醜悪な人間であるとか、頭が悪いとか、そういうことは、問題にならない。

変に中途半端に賢かったり、善良だったりするより、強欲で適度におバカな上司の方が、操縦しやすいものだ。

つまり、この場合、芦屋氏など、単にチェスゲームをすすめる上での、コマに過ぎないのだ。

 

それが第二ステップ。

 

そして、顧客にしろ、芦屋氏にしろ、全体の構造を頭の中で組み立ててみて、

「あ、このゲームは、いくらやっても、きちんとした構造に組み立たないや。

無理にやろうとしても、疲弊するだけだな。」

と思ったら、さっさと、別のゲームに切り替えるべきである。

 

つまり、さっさとそのプロジェクトや部署から逃げ出す算段をするだろう。

もしくは、転職する算段をする。

 

それが、第三ステップ。

 

これが、現実的な対処というものだ。

しかし、このフィクションストーリーでは、坂本君は、そういうことのできる人間ではない。

つまり、単にintelligentなだけで、wiseではない。

 

このままでは、坂本君は、未熟なまま老いてしまうだろう。

 

なぜ、坂本君は、wiseになれないのかというと、

第一に、誰でも正しいことをするべきだ、ということを主張するだけで、物事を動かせると思っている。

第二に、上司や会社に甘えている。

 

とくに、この一点めが、intelligentな人たちの、根深い病なのだ。

「誰でも正しいことをすべきだ」ということと、「それを実際にどう実現していくか」ということは、全く別のことなのだ。

世の中で正しいことを実現していくには、世の中が正しいことを前提として行動してはいけないのである。

 

坂本君は、「芦屋氏が正しい意見に従うのが当然」という前提で動いているが、それは、無菌室でしかできない手術を、雑菌だらけの日常空間でやるようなものだ。

 

そんな安易な前提の元に行動するようでは、顧客も正しい意見に従うに違いない、という前提で行動してしまうときがやってくるだろう。

 

そもそも、世の中は、正しいか間違っているかの2分法では動いていない。常に、その中間で、様々な妥協をしながら、結果として、正しい方向にどれだけ近づけることができるか、そういうゲームなのである。

 

そして、2点目の、安易に上司を味方だと思っているのも、致命的だ。

 

上司は、自分より賢いとは限らず、正しいとも限らず、それにもかかわらず、自分は上司のオーソライズのない行動はとれない、という現実を直視するところからはじめないと、プロジェクトは上手く動かせない。

 

だから、坂本君のような人間は、そういう世の中の現実を、思い知らせるような、キッカケが必要なのだ。

 

その一つになりうるのが、この記事で芦屋氏が仕掛けた、根回しゲームだろう。

 

この根回しゲームにおいて、坂本君は、次長と部長のところに説明しに行ったとき、なんだかよく分からないまま、とにかく自分の提案が否定されるという経験を味わったわけだ。

 

これは、とても良い経験で、こういうとき、坂本君が味わうのは、「提案内容の正しさとかじゃなく、部長と次長は、とにかく芦屋氏の味方なんだな」ということである。

そして、味方の少ない自分は、パワーゲームで負けている、ということを実感する、ということだ。

 

結局、プロジェクトを実現するというのは、いかに自分の味方を増やし、賛同者を増やし、自分の構想を推し進めるか、ということであって、それは、本質的にパワーゲームだ。

論理的な正しさや、道徳的な正しさだけで、プロジェクトを推進できると思うのは、大きな勘違いなのだ。

 

坂本君に欠けているのは、まさに、その点であって、この社内政治ゲームにおいて、敗北を喫した坂本君が、十分にintelligentなら、同じことが、顧客組織の中でも起こっているといことを、想像できるようになるはずだ。

 

すなわち、顧客組織の中の政治ゲームの構造を理解した上で、提案書を書けるようになるはずだ。

顧客組織の意思決定メカニズムをどう操作すれば、自分の提案にYesという意思決定をさせることができるか、というゲームなのだと言うことを理解する。

 

そして、それが出来るようになれば、自社の政治ゲームで、自分のプロジェクトにいかに予算と人員を確保するか、というゲームもできるようになる。

転職の際も、どのような会社に転職すれば、大きな裁量権をもち、楽しく仕事のできるポジショニングになるか、計算して、転職の駆け引きができるようになるだろう。

 

もちろん、坂本君の器が小さければ、芦屋氏の仕掛けた政治ゲームは、逆効果になる。

坂本君は、「世の中は腐っている」と思いこみ、ひねくれた人間になってしまうかもしれない。

上司の言うとおりにしているだけのつまらない人間になってしまうかもしれない。

 

しかし、世の中が無菌室であることを期待するのは、控えめに言って、世間知らずだ。

 

不毛な政治ゲームが少しでも減るように心がけながらも、現実的には、政治ゲームには政治ゲームで対抗しながら、自分の理想を実現していかなければならないことを、肝に銘じて生きていくべきだろう。